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我がロイヤルウエディングは来世へ持ち越し当確。そん時はみんな参列してくれよな(👈悟空)!

2019年三が日の読書記

お正月は普段の週末に輪をかけて何もしない!遊ぶ!寝る!と決めたアラフォー・純正独身者がここに。

外へ出たのは大晦日から元旦にかけて、クラブへ遊びに行ったきり。全く知らなかった人気ドラマ再放送(”アンナチュラル”面白かったー!)を一気見したり、ドラクエ11をやりこんだり(裏ボス撃破前なのにもうパーティー全員がレベル99まで到達しそうなイキオイなんですけど…)、インドア派・ここに極まれり。

お風呂の中や眠る前、ふとした合間に先日書店で買っておいたこちらの本を読んでいました:

www.shinchosha.co.jp野坂昭如の晩年に書かれた日々のエッセイ集。

わたしは彼の事を『映画”火垂るの墓”の原作者だわーぁ』『泥酔して大島渚監督をパブリックな場で殴ったバイオレンス・かつエキセントリックなおじさまだわーぁ』という程度しか存じあげなかったのです。

数年前、まだ作者がご存命の頃。たまたま書店で”火垂るの墓”がの収録された文庫本(それが直木賞受賞作だったそうです)を見つけ、”たまにはこのジャンルも読んでみっか”とごくごく軽~い気持ちでそのまま手に。

収録された短編は全て読了したものの、表題作の”アメリカひじき”、映画化された”火垂るの墓”だけでだいぶカウンターパンチくらいまくって超グロッキー。←こんな感想、万が一でも作者が目にしていた日にゃー即ブッ飛ばされますかね?あるいは平和ボケだなと笑ってくれるかも(と願いたい)!

火垂るの墓”の映画がかわいそうだとか悲しいとか、一度この原作を読み、描写を目にしたらたやすく口になどできなくなることでしょう。そこには戦争に巻き込まれ、悲惨だけれど当時にはごくありふれた光景になってしまっていたひとりの浮浪児の死をさかのぼることから物語は始まり、彼にまつわる人々のエピソード、そして死が淡々と記されています。それはもう淡々すぎるほどに。

けれども短編小説はあくまでもフィクションなのです。当時彼が直面した現状など、この21世紀の平和な世の中を生きる我々の想像になどおよばないことは火を見るよりも明らか。なお、こちらのエッセイでは”火垂るの墓”というタイトルの意味も記されています。

軽い気持ちで購入した”アメリカひじき/火垂るの墓”の文庫本を読み返すたび、胸の中に重くて飲み込めない塊がどんどん増えていくような気分になり、持っているに忍びなく、本好きのわたしにしては珍しく手放してしまったのです。…が、酒好きでバイオレンスなおじさまだわー、超偏屈な作家なんだわー担当編集者はさぞ大変だったろうなー…とばかりイメージしていた、作者の破天荒なキャラクターの礎に何があるのかは触れられたと思っています。

晩年に書かれたというこのエッセイでも繰り返し”自分はずっと嘘をついてきた”とあります。それは複雑な生い立ちもさることながら、戦時中、避難する時にぐずる幼い妹を殴って気絶させてまでも静かにさせたことなどから、”火垂るの墓”の主人公・清太ほど自分は優しくなかったのだから完全なる自伝ではない…という、彼の言うところの嘘なのだと。自分は日々ずっと嘘をつき続けているのだと。

何度も何度も戦時中のこと、何もかもを失って焼け跡をはいずりまわるようにして生き抜き、終戦をきっかけに世の中の常識がそれこそ180度変わってしまった事実から、一体己以外の何を信じればいいのか…といった、幼い頃の強烈な体験とやり場のない憤りが事あるごとにこのエッセイには表れています。

頭が上がらない奥様、ペットの猫やお孫さんとの日常も書かれていて”ほらー、やっぱイイヤツなんじゃーん実はー!”と(はい!勝手にイイヤツ認定!)、これまた作者が耳にした日にゃーマイクで殴られかねないような感想を持ちながら読み進めておりました(あ、でもエッセイによると女性に優しい紳士のようですから幾分はご容赦いただけるかと…)。

…だけれども、彼の心の根底をずーっと、絶え間なく流れていたものは日々の幸せを理不尽に奪われた哀しみと憤りに他ありません。本来エキセントリックなキャラだったとか、生まれながらに破天荒なわけでも決してなかった。

晩年までもひとりの人間の心に、出口がなく、逃れようのない苦しみを植え付けた戦争体験。ましてや彼はその後、直木賞作家となって著名な立場にもなったわけです。そのひとですら、繰り返し繰り返し戦時中の事を何かにつけて日記代わりのエッセイに記していたとは。ただただ戦争のむごさを今の世で訴え、終戦当時十四歳の少年だったご自分の非力さにずっと苛まれ、”日本人は農に回帰すべき”だと、この一見平和かつ飽食の世の中を憂いていらしたようです。

”妹におにぎりを食べさせてやりたかった”との一行には、彼の真髄が込められているとわたしは感じ、十四歳の少年に一体何ができた?自分が生き延びるだけで精一杯だったのに…と想像するだけで胸がつぶれます。

今や昭和が遠くなったどころか、間もなく平成の世も終わりますが、すなわち戦争を経験した方々もきわめて少なくなっているということでしょう。

事実に基づくものごととは常に多面体で成っていて、自分が知ったような気でいるのは単なるその一面だけに過ぎないのだと、日頃は何かとおちゃらけまくりのわたしが、ガラにもなく新年早々背中を叩かれたような気持ちにさせられた一冊でした。