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我がロイヤルウエディングは来世へ持ち越し当確。そん時はみんな参列してくれよな(👈悟空)!

誰かにとって心のシェルター

3月22日は、祖母が亡くなってから8度目の命日でした。

わたしにとって祖母は、子供の頃から甘やかしてくれて、母親から怒られたりした時には真っ先に逃げ込む避難場所のような存在だったのです。

高校生ぐらいになると、今思えばわりと好き勝手な格好をし放題だった孫娘に対しても『それ似合うわねぇ』とか『日焼けサロンの中ってどうなってるの?』だとか『チャイナドレスをクラブで着るのは賛成できないわよ』などと、見た目は正直どこにでもいる小さなおばあちゃん然…としていたにもかかわらず、両親よりも面白いコメントを連発して来て”うわ!大正生まれって結構理解がある…っつーかアナーキーなのかも!?”と、さらに祖母が大好きになり懐きまくっていたわたし。

いよいよわたしが社会人になると『おばあちゃん聞いてー?この間の合コンに来た男の人たちがすっごい派手な感じでさー…』と、母親にもそこまで話さないようなグダグダ話を祖母には報告。それを日本茶片手に『あらぁ、昔からあの業界の男の人はお忙しくてとても華やかだって言われていたのよネー』などと涼しい顔でコメント投下…という不思議な光景が。

80歳を過ぎようと、好きなテレビ番組は”人志松本のすべらない話”。タイプの芸能人は稲垣吾郎谷原章介小泉孝太郎と周囲に公言し『…そ、それであの旦那チョイスすか…?!』と家族や友人からツッコミを受けまくって、にこにことしていた祖母。

親しい友達も『おばあちゃん面白くて小さくて超かわいい!大好き!』、『わたしが就職決まったって話した時”おめでとうございます”って言われてじーんとして泣きそうになったよ』と、何の変哲もない見た目(←おばあちゃん…そればっかり連発してゴメンよ!)と、ひょうきんなキャラのギャップにファン多し。

当時の写真を今日見てみますと、今どこからどう見てもドギャルの友人が小さな祖母を囲んでポーズ(たぶんパラパラの…orz)を取っている…というカオス。なにはともあれ、孫娘もひそかに鼻が高かったものです。

…そんな当たり前のような日々を過ごしていましたし、これからも当然続くとばかり信じていたのに、それは無知な若者ゆえの傲慢だったのでしょう。もともと体が弱く、急に倒れた後は病室と自宅の往復をするようになってしまいました。

ありがたいことに病室にいる時でも意識はしっかりあり、自分でお手洗いにも行けて、わたしがお見舞いへ行くと身体を起こしてベッドから窓の外を眺めていたり、テレビを見ていたり(たいがいお笑いか吾郎ちゃん目当てのSMAP関係)。持って行ったおやつを食べて普段と変わらないおしゃべりをするような日々でした。

ある日、仕事帰りにそのまま祖母の病室へと立ち寄った時のこと。その日は職場で普通では到底ありえないほど理不尽なことがあり、その足で人事へ行って辞めてやろうか…とすら半ば本気で思いながら自分の席を立ちました。

帰りの電車に乗ったものの、どうしてもそのまま家に帰る気にはなれず。そうだ、祖母の所へ寄ってみよう…と思ったほどの、社会人人生でまれに見るさんざんな日。

病室へ着くと、祖母は普段通りテレビをつけながら編み物をしていました。そして何の連絡もなく突然病室に現れたわたしの姿を認めると『おかえり、今日は大変だったんでしょう』とにっこり笑って言うのです。

わたし、祖母の小さな両手を取って何も言わずそのまま号泣。祖母は子供の頃からめったに泣く事のなかった孫娘の姿にも驚く事なく、ただ静かに『大丈夫よ、また頑張れる』と繰り返し、手を包んでくれた。

祖母の前でひとしきり泣いた後、帰路に着きました。翌朝も普段通り出勤し、人事部へ激ギレモードで駆け込むことなどもなく、粛々と仕事をしたのですが。

この時の病室での話を家族にすら話す事なく、その後間もなくして祖母は亡くなりました。

…今でもわたしは、この時のことを思い出すたび、祖母の小さくも温かな手とやさしい声がまざまざとよみがえって涙が出ます。そして自分もこれから先の人生で、必要とされる誰かにとってそういう存在でありたいなぁ、と思いながら淡々と毎日を送っているのです。

おばあちゃーん!わたしは相変わらず名字が変わることもなく毎日元気だよー。ありがとう!大好き♡!

PS:あと超っ絶今さらだけど、その昔わたしがカッコイイって騒いでたのはKAT-TUNの赤西君だよ。おばあちゃんナースのひとたちに『孫娘が嵐の二宮君の大ファンでねぇ…』ってわたしが何度訂正しても言い続けて、切り抜きとか嬉々として見せてたけどさ、それ完全におばあちゃんのご趣味でしたよね。そういう相当すっトボケた所も今も昔も変わらずに敬愛しているポイントだよ(笑)。